花鳥風月


 はーるのー うらーらーのー
 と、心の中で歌い始めて、早くも躓いた。続きの歌詞が思い出せない。たしか川の名前が続いた気がするが、どこの川だっただろう。
 すこしの間思い巡らせたが答えが出ず、面倒になって考えるのをやめた。気を紛らわそうと足元にあるコーヒーの缶に手を伸ばしたが、既に空になっていた。はぁ、と少し大げさにため息を吐いた。
 退屈だった。桜がよく見える場所にビニールシートを敷いて、後は昼寝でもしていたらいい。そう言われたから引き受けたが、これは思った以上に大変な仕事だった。桜のよく見える絶好の場所は競争率が高く、朝早くから場所取りをしなくてはならなかったし、昼寝をしようにも周りの宴会の騒音が酷くて眠れない。腕時計を見ると、約束の時間まであと一時間近くある。僕はもう一度、はぁ、とため息を吐いた。


 僕が花見の場所取りを頼まれたのは昨夜のことだった。急に電話をかけてきた先輩は、「頼むよ、ゼミの単位がかかってるの」といきなり僕に頭を下げてきた。いや、電話越しだから実際に頭を下げたのかどうか確かめようがないけれど。
先輩の事情はこうだ。先輩の所属しているゼミで花見をすることになったらしい。ゼミの先生も来るということで、みんな先生からの評価を上げようと張り切って準備していたようで、特に普段からゼミの出席日数に不安がある先輩はここで下がりに下がった評価を少しでも底上げしようと変な方向の努力をしていたらしい。
「それで、花見の場所取りも私がやることになったんだけど、代わりに君が引き受けてもらえないかな」
「いやですよ。それ僕に全く関係ないじゃないですか」はっきりと断る。先輩のゼミのことなんか知ったこっちゃない。自分が参加しない花見の場所取りだけするなんて御免だ。
「私が朝起きられないの知ってるでしょ!」
「開き直らないでください。それにその遅刻癖を直したらこんなことしなくてもゼミの単位も貰えるんじゃないんですか」
 その後も続いた押し問答のような先輩からのお願いに最終的に僕が折れる形になった。ただシートを敷いてその上に居るだけ。それ以外のことは一切手伝わない。その条件で引き受けた。僕が一方的に損することになるが、もういつものことなので諦めることにした。


 約束の時間となり、先輩がやって来た。
「ありがとーね」と、先輩が僕に缶コーヒーを手渡す。
「えっ、これだけ?」缶コーヒーを受け取りながらも、つい言ってしまう。朝から待たされた謝礼がこれだけでは割に合わない。
「ごめんね、今はそれしかないからお礼は今度ちゃんとするよ」
「そう言って何時もうやむやにしてるじゃないですか」
 そうだっけ? っと先輩は笑う。僕は本日何度目かのため息を吐く。やっぱりこの人には敵わない。
「じゃあちょっと聞きたいことがあるんで、これだけ教えてくれたらもう今日のことはいいです」
僕はそう言って、
はーるのー うらーらーのー
っと、今度は声に出して、先輩にだけ聴こえるくらいの大きさで、歌った。
「これの続きの歌詞、どんなのでしたっけ」



 雨がしとしと降っていた。
 僕は雨が嫌いだけど、梅雨だから仕方ない。せめて今日は雨がざあざあ降りでなく、しとしと降りであったことに感謝しよう。
 僕の一歩前を先輩は歩いている。青い男物の大きな傘は小柄な先輩には不釣り合いだったが、本人は気にしていないように堂々と差している。先輩曰く、女物の小さい傘だとバッグが傘に入りきらなくて濡れてしまうらしい。


「あっ、カタツムリ」
先輩が民家の軒先で立ち止まり、そう言った。見ると、その家の庭で咲いている紫陽花(あじさい)の葉にカタツムリがいる。
 なつかしいなー、と先輩はカタツムリの右目をつつく。つつかれたカタツムリは右目をひっこめ、そしたら今度は左目をつつかれた。
「カタツムリを見たのなんて、小学生以来です」僕はそんな先輩とカタツムリのやりとりを見ながら言った。
「私も。昔はあんなにいっぱい居たのに全然見なくなったよね」
「数が減ったんじゃなくて、僕たちが探そうとしなくなっただけじゃないんですか」
 そうかもねー、と返事をしながら、先輩は再び現れたカタツムリの目をまたつついている。


 駅までの道は狭く、傘を差しながら横に並んで歩くと窮屈になる。だから僕は先輩の後ろを一歩分下がって引っ付いている。先輩は前を向きながら、後ろの僕に話しかけてくる。
「鳥がね、低く飛んでいたら、雨が降る前兆なんだって」と先輩が言った。
「よく聞く話ですよね」と僕が言う。
「天気予報なんてなかったような頃の昔の人は、その鳥が低く飛ぶのを見て雨が降ることを知ったんだよ」
「生活の知恵ってやつですね」
「でも鳥って優しいよね」
「なにがです?」
「だって、雨が降る度にわざわざ雨が降るよーって知らせてくれてるんだよ。大昔から」
「いや、鳥は別に雨を知らせるために飛んでいるわけじゃないですよ。鳥には鳥の事情があるんです」
「じゃあ、それってなに?」
「雨が降ると小さな虫が地面近くにいるから、それを食べるために低く飛ぶらしいですよ」
僕がそう説明すると、すこし不機嫌そうな声で、「君には夢がないなー」と先輩が言った。


 雨はしとしと降って続いている。
 僕は雨が嫌いだけど、梅雨だから仕方ない。せめて今日は雨がざあざあ降りでなく、しとしと降りであったことに感謝しよう。
 それでねー、と先輩の楽しそうな声が雨音の合間を縫って聞こえてくる。
 これがもしざあざあ降りだったら、きっと声は雨音に掻き消されて僕の耳まで届かなかっただろう。だから、せめてこの帰り道の間だけは、ざあざあ降りじゃなくてよかった。と思おう。



 秋の冷たい空気を孕んだ風が吹いた。それに合わせて、並木の道に敷かれた落ち葉の絨毯が波打つようにぞわぞわと動いた。
 隣を歩く先輩はその様子を面白がってはしゃいだ声を上げている。僕はそんな先輩を見て、なんだか申し訳ない気持ちになっていた。


 僕たちは公園にいた。大学の近くにある、少し大きめの公園だ。
 昨日の夜に先輩から電話がかかってきた。
「せっかくの行楽シーズンなんだからどっかに出かけようよ」
「えー、嫌ですよ。寒いし」
 いつもの先輩の気まぐれな誘いだった。元来の出不精な僕はこういった誘いをいつも断っていた。先輩が僕を誘う理由も他に誘う相手がいないからだったりするので、あんまり乗り気になれない。
「みんな卒論や就活で忙しくて他に遊びに行ける相手がいないの。お願い! たまには付き合ってよ」
「先輩はこの時期に何やってるんですか......」
 結局話は堂々巡りになって、最終的に僕が折れた。
「でも授業もありますし、近場で済ませますよ」
「うん、どこでもいいよ」


 こうして授業の合間に大学近くの公園まで遊びに来たのだが、はしゃぐ先輩を見てると罪悪感が押し寄せてきた。
 先輩だったらきっとどこでも楽しそうにしてるんだろうけど、でも、もうちょっと良いところに連れて行ってあげればよかった。本人が全く気にしてなさそうにしてるので、僕の方が気になってしまう。
 平日の昼の公園は人が疎らだった。ベビーカーを押しながら散歩する人やベンチで日向ぼっこをしている老人が点在しているが、やはり休日と比べるとがらんとしてる。なんだか寂しい場所のように思えてならない。
「やっぱり寒いねー」先輩は両手を擦り合わせながら、そう言った。
「もう秋も終わってすぐに冬が来ますよ」
「私ね、一年の中でも秋が一番好きだな。毎年秋が終わりそうになると、ずっと秋でいてくれーって思うよ」
「夏の終わりの時も似たようなこと言ってましたよ」
「そうだっけ?」
 先輩の話はあんまり真剣に取り合わない方がいい。
「なら何時だって、きっとその時の季節が一番好きになるんだよ」
「そういうもんなんですか」
「うん。冬だったらスキーやスノボーが出来るし、春が来る前は冬が終わってほしくないって言ってるよ」
「冬だったら僕はコタツで蜜柑がいいですね。それからお鍋とか」
そう言うと先輩は、やっぱり君はインドア派だねーっと笑った。


 こうやって季節の話をしていると、時々ふと考えてしまう。秋だったら一年経てばまたやってくるけれど、それは今年の秋とは全然違うものなんだろう。一年後の秋に、先輩とこうして隣にいられるのだろうか。
 また風が吹いた。先輩の髪を靡かせて、風は僕らを通り過ぎていく。思わず立ち止まった先輩と顔を見合わせる。
「あの......」と僕は重たい口を開き、次に出る言葉を探した。
   



 師走の寒の極まる夜に呼び出された。電話口で言われた居酒屋の前で待っていたのは、べろべろに泥酔しきった先輩の姿だった。


「あー来た来た。こっちだよ」
 僕の姿を見つけた男の人が、手を振って呼んでいる。僕のケータイにかけてきたのもこの人だった。
「大丈夫だから~。もう一軒行けるから~」と、先輩が気だるそうに叫んでる。これは重症だった。
「迷惑をかけてすいません。ちゃんと引き取っていきますから」
「お前も大変だな」
「......慣れましたから」
 男の人は先輩と同じゼミの人で、春に先輩に花見の場所取りをさせられた時に知り合って、それから先輩に付き合わされて色んなイベントごとに行くうちに仲良くなった。どうやら今日はゼミの飲み会があって、それに参加した先輩がはしゃぎ過ぎてしまってこんなことになっているようだ。
「それじゃあ、俺はゼミのメンバーと合流するから、彼女をよろしく頼むよ」
「はい。すいません」
 そうやって彼と別れて、後には僕と路上に芋虫のように寝転がる先輩が残された。


「う~ん、迷惑かけるね」
「しっかりしてくださいよ」
 帰り道を先輩を負ぶって行く。重くはないけど、軽いということもなく、それを負ぶって短くはないう道のりを歩いて行くのは大変だ。
 夜道には僕らの他に誰もいなかった。年末の忙しくて寒い時期に、夜中の少し手前の遅い時間を人々はこんな風に過ごしたりはしない。


「前にも、この道を通ったよね」
 僕の後ろから先輩の声が聞こえる。
「あそこの庭先の紫陽花にカタツムリがいたんだよ」
「そんなこともありましたね。あれは夏だったかな」
「うん。一緒に散歩をしたこともあったよね」
「秋に紅葉並木の下を歩いたんですよね」
「どこか遊びに連れてって、って言ったのに近所の公園だった」
「申し訳ないと思ってますよ」
 先輩の笑う声が微かに聞こえる。
「春の花見で私のゼミの人と仲良くなったんだよね」
「まあ、花見はなりゆきで参加させられたんですけどね」
「来年のゼミ選択は私と同じゼミにしたんでしょ? 先生に顔を売れてよかったじゃん」
「ゼミの抽選は公平なんで花見の件はゼミの当落には関係ないですよ。たぶん」


 ふと空を見れば真っ暗な空にぽっかりと月が出ていた。誰もいないと思っていたこの夜道を、月はずっと見ていた。それに気づくとなんだか恥ずかしくなって、早く雲に隠れてしまえと思った。
「今年は色んなことをやったねー」と楽しそうな先輩の声が聞こえる。
 師走の寒さの中、背中からは先輩の熱が伝わってくる。それが恥ずかしい。
先輩、と宙に向かって呟く。それに、「うん?」と先輩が応える。
少し間を空けて、言う。「来年も、よろしくお願いします」
僕にはそれを言うので精一杯だった。 

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